もう数十年パニック障害と付き合って来ましたが、やはり発作が起きるとしんどいです。
多分考えていないようでも、あれこれ考えてしまっているんでしょうね。
まあ生活していると常に心配事(ストレス)がありますから、それが蓄積されていくと『発作』という症状が現れちゃいます。
例え薬を飲んでいても、発作は起きます。
!doctype>もう数十年パニック障害と付き合って来ましたが、やはり発作が起きるとしんどいです。
多分考えていないようでも、あれこれ考えてしまっているんでしょうね。
まあ生活していると常に心配事(ストレス)がありますから、それが蓄積されていくと『発作』という症状が現れちゃいます。
例え薬を飲んでいても、発作は起きます。
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イギリスで是非とも訪問しておきたかったのは,経度の基点たるグリニッジ天文台だった。グリニッジはロンドン郊外のテムズ川下流に位置し,鉄道や地下鉄,そしてバス,幾通りもの交通機関で行くことができる。
でも,今回私たちが選んだのはリバーボートだった。ウエストミンスターからリバーボートに乗れば,ロンドンの主たる観光地を船の上からゆっくり見物しながら移動することができる。少々時間はかかるものの,観光っぽくて楽しそうだ。予定していた初日は幸いにして天気も上々,船旅日和に恵まれた。
ウエストミンスターからグリニッジ行きの船は,ウエストミンスター・ピアから30分おきに,毎正時と30分に出ている。ウエストミンスター寺院の観光を終えたのが14時40分だったので,15時の船のチケットを買うべく,私たちはピアへ急いだ。
グリニッジまで片道約1時間,天文台の開館時間は17時まで,入場は16時半まで。何とかギリギリで観光できる計算だった。慌ただしいが,ロンドンでの時間はたったの4日,しかも最後の1日は予定が決まっている。無駄なく動き,出来る限り希望の場所を訪問したかった。
ウエストミンスター・ブリッジ(Westminster Bridge)の袂にあるウエストミンスター・ピアは,振り返って上を見上げればビッグベン,対岸にはBAロンドンアイやロンドン水族館が見えており,絶好のロケーションだ。おかげで観光客がいっぱい。少々混雑していた。
私たちがピアに到着したのは14時50分だったが,チケット売り場には,短い行列ができている。15時の船に間に合うかどうか心配しながら並んだが,行列は順調に進み,無事に予定していた15時の船のチケットを買うことができた。
青い看板に「1/3 OFF MOST PRICES FOR HOLDERS OF TRAVEL CARD OR OYSTER CARD, LOADED WITH A VALID TRAVEL CARD」と書かれており,オイスターカードを持っていた私たちはチケットを割引料金で購入。ウエストミンスターからグリニッジは通常大人£7.50だが,£5で済んだ。勿論クレジットカードが使え,手続きは迅速だ。
残念ながら,チケットは船に乗るときに回収されてしまい,時間ぎりぎりで急いでいたため撮影する暇はなかった。
※写真をクリックすると解像度の高い写真の全体像が見られます。一部のサムネイルは切り取ってあります。
船は小さいながらも美しく,意外にすいていた。
日焼けが心配だったものの,風に当たって風景を眺めたかったのでキャビンの後部から甲板へ上がり,甲板の最後尾の席を確保。なかなか開放感があり気持ちよい。ロンドンアイとビッグベンに囲まれて,どちらを向いてもロンドンという感じ。何を写真に撮ったらよいのか悩むほど贅沢な風景だ。
リバーボートはほぼ定刻通りに出発し,隣の席にはヨーロッパのどこかの国(ドイツかチェコ?)から観光に訪れたと思われる子供が二人やってきた。
リバーボートが動き出すと,ウエストミンスター・ブリッジの袂に立つ女王ボーディシアの銅像とその向こうのウエストミンスター宮殿の全景が,ピアの後ろから顔を出す。ウエストミンスター・ブリッジの上にはロンドン・バスが何台も走っており,バスの赤い色が楽しげだ。
BAロンドンアイとその畔にあるウォータールー・ミレニアム・ピアの前を通り過ぎ,ビッグベンはあっという間に小さくなっていく。
※写真をクリックすると解像度の高い写真の全体像が見られます。一部のサムネイルは切り取ってあります。
どうも、帰国翌日に熱と、帯状疱疹(ヘルペス)に冒され、日間も寝込んでました・・・。
もちろん、帰国翌日から出発予定のスノボはキャンセルでした・・・。
そろそろブログを書こうかと思うんですが、書くことがたくさんありすぎてあまりやる気がでないんだよねぇ。
なんで、ちょっとずつ書き足していこうと思います。
月日 日本出発日
朝、池上君からの電話で目覚める。
「飛行機の搭乗者にドンさんの名前が無いようなんですが・・」
んな、馬鹿な!!と思いつつも、相当焦ったわ。森田加瀬にどう謝ろうかと考えたし。
結局、大韓航空のミスで、ちゃんと席は取れてたんでよかったんだけども。
そんなこともありつつ、時に成田空港で森田加瀬と落ち合う。
ちなみに集合時間は時、早い。
で、飛行機乗って、ロスに日朝時頃着。
池上君とは時半に合流し、レンタカーを借りて、へ向けドライブ開始♪
左ハンドルにはすぐに慣れ、標識はよくわからんでもなんとかなるもん。
アメリカでの運転は楽しかったよ。
広大な大地と、まっすぐの道。
ロスの緑の山から、荒涼とした砂漠、奇岩、湖、シェラネバダの山々、すべてが新鮮な景色で。
には時頃着。
で食料、でガスを購入し、さっそくへ。
でも、すでに日も暮れかかって、風も強くて、岩探しも半ばで終了。
五時半に、これから週間お世話になるキャンプ場に着き、テント設営、炊事。
星空がきれい。が良く見えた。
月日
朝起きたら、雪が積もってた。。。
とりあえずへ。
だいたい雪が積もってて登れなかったけど、乾いてる岩をちょいちょい触る。
クライマーにはほとんど合わなかったな。
だって、岩ぬれてるし、雪降ってるし、寒いし。
時くらいでクライミングは終了。
加瀬がのマット購入。
メキシカンレストランでブリトーを食べる。
豆はこりごり。
2月日
今日は晴れ(雪は積もってるけど)
カンザス州の歴史(カンザスしゅうのれきし、英:History of Kansas)では、アメリカ合衆国カンザス州となった地域に、アメリカ州の先住民族が住み始めてから、ヨーロッパ人による探検と開拓、アメリカ合衆国の州となってからの発展の歴史を概説する。カンザスはアメリカの古き西部の民間伝承が豊かな地域である。グレートプレーンズの東の縁に位置し、古くはアメリカバイソンの大群を狩りしていた遊牧型先住民族の本拠だった。この地域が初めて西洋の歴史に現れるのは、16世紀にスペインがメキシコを征服した時であり、スペインのコンキスタドールがカンザスと呼ばれる未知の土地を探検したとされている。後には先住民族と交易していたフランスの罠猟毛皮業者によって探検された。1803年のルイジアナ買収の結果、アメリカ合衆国の一部となった。19世紀、最初のアメリカ人探検家は� �の地域を「グレート・アメリカン・デザート」(アメリカ大砂漠)と呼んだ。
1850年代にヨーロッパ系アメリカ人の開拓に開放されると、南北戦争に繋がる紛争の最初の戦場になった。南北戦争後、古西部の拠点町として牛の交易を行った。鉄道によって東部やヨーロッパからおよび「エクソダスター」と呼ばれる解放奴隷の移民が大挙して起こった。カンザスはその歴史の大半で小麦やその他の穀物に基づく田園経済であり、これを石油や鉄道が補った。1945年以降農業人口は急速に減少し、ウィチタの航空産業を初めとする製造業の重要性が増してきた。
これまでに解明された考古学および地質学的形跡を総合すれば、旧石器時代のマンモスを狩猟の対象とした一族が旧石器時代終わり頃のいずれかの時点(紀元前1万年頃までと考えられる)で、様々な手段で北アメリカ大陸北西部に入ってきた。紀元前7000年頃、北アメリカに入ったアジア系移民がカンザスにも到達した。当初カンザスに入った人々は決してカンザスを捨てることはなく、後から入ってきた人によってその数が増えていった。これら新参の人々はマンモス、ラクダ、地上性ナマケモノおよび馬に遭遇した。これらの生物種はそれ以前に大型動物を狩る洗練された人々に遭うことは無かったので、その結果は「更新世の過剰殺りく」となり、紀元前8000年頃までに北アメリカの大型氷河期動物のほとんど全ての種は急速にまた� ��織的に個体数を減少した。ある意味で、マンモスを追った狩人はグレートプレーンズ北部で最初の経済繁栄サイクルを経験しており、資源が枯渇するか破壊されるまで容赦なく使い果たした。
大型動物の狩人が居なくなると、その後の古期の人々は専門家というよりも多方面の才能を持つ人となって生き残り、平原を季節移動して食料を集めた。この人々は狩猟を諦めた訳ではなく、野生の食用植物や小さな動物を対象とした。その道具も様々に変化し、潰したり切ったりする作業が普通になっていたことは、種、果物および野菜が食料の大きな部分を占めていたことを示すものでもある。また土器を作る社会も出現していた。
古期の大半、人々は基本的にその自然環境を変えることはできなかった。この地域以外にいた集団、特にメソアメリカでは、農業のような大きな革新的なものをアメリカ中に紹介していた。約3000年前に古期の集団には食料採集者から食料生産者に変わった者がいた。彼らは半定住農業生活に伴う多くの文化的側面、すなわち貯蔵施設、より恒久的な住居、大きな集落、および墓地をすら持っていた。エル・クアルトレーヨ遺跡は最北のインディアン・プエブロ集落である。この集落は古期の遺物が見つかったカンザスでは唯一のプエブロである。
早くから農業が現れていたにも拘わらず古期後期の人々は自然環境に対する制御はほとんどできていなかった。さらに土器の発明や灌漑が進んだ後でも、野生の食糧資源が食料の重要な構成物のままであった。古期最大の社会にあっても、農業の導入は完全に狩猟採集生活を捨てさせることにはならなかった。
1541年、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドがカンザスを訪れ、リンズボーグの「コロナド高地」近くまで引き返したと言われている。コロナドの遠征隊はプレーンズ・インディアンに馬を紹介し、急速にその生活様式と範囲を変えた。この変化に続いて、カンザ族(時としてコー族)やオーセージ族(元はウーサシュ族)が1600年代にカンザスに到着した(カンザ族は1673年以来この地に住み着いたと主張した)。18世紀の終わりまでに、これら2種族はカンザスの東部で支配的な種族となり、カンザ族はカンザス川の北に、オーセージ族はアーカンザス川の南に住んだ。同時にポーニー族(時としてパニーサ族)が、カンザ族やオーセージ族の西や北の平原に支配的な種族となった。この地にはアメリカ� ��イソンの大群がいた。ヨーロッパ人は1719年に北部ポーニー族を訪れた。オーリンズ砦のフランス軍指揮官エティエンヌ・ド・ブールモンが1724年にカンザス川を訪れ、河口のカンザ族主要集落の近くに交易拠点を設立した。同じ頃、スー族の中のオトー族もカンザス北東隅周辺の様々な地域に住んだ。
ルイジアナ買収の地図
オレゴントレイル 1852年-1906年
カンザスは1803年のルイジアナ買収の一部としてアメリカ合衆国に編入され、未組織領土となった。1806年、ゼブロン・パイクが領域内を通過し、その地図上に「アメリカ大砂漠」と書き入れた。カンザスに対するこの見方はその後の40年間合衆国の政策を特徴付け、先住民族のための土地として取って置かれることになった。
1803年のルイジアナ買収に続いて、ルイス・クラーク探検隊が太平洋に到着する任務を帯びてセントルイスを出発した。1804年、ルイスとクラークは今日のカンザス州カンザスシティにあるカンザス川とミズーリ川の合流点(現在のコーポイント川岸公園と認識されている)で3日間宿営した。カンザス川とミズーリ川の合流点滞在中にフランス人毛皮交易業者と会い、地図を作った。カンザスは短期間ミズーリ準州の一部となった後、1821年に未組織状態に戻った。1821年にはまた、南西部への輸送道路としてカンザスを横切るサンタフェ・トレイルが開通し、ミズーリ州とニューメキシコのサンタフェとを結んだ。
ルイス・クラーク探検隊の後は特に、セントルイスからミズーリ川上流の交易が急成長したので、合衆国政府はこの地域の統治拠点を造ろうと考えた。1827年5月8日、レブンワース野営地、すなわちレブンワース砦(ヘンリー・レブンワースに因んで名付けられた)が、合衆国の西部辺境への旅人を守るためにインディアン領地の直ぐ内側に建設された。ここが将来のカンザス州における初めてのアメリカ白人の恒久的定住地となった。カンザスを横切るサンタフェトレイルの一部は、1840年代に開通したカリフォルニア・トレイルやオレゴン・トレイルを通る移住者に使われた。西方の道は、1860年代に鉄道がその役目を引き受けるまで、重要な商業と軍事の幹線道路として役立った。ユタ、カリフォルニアあるいはオレゴンに行く旅人に� �っては、カンザスが重要な中継地点であり、旅装を整える場所だった。ワゴンベッド・スプリング(またはローワー・スプリング、ローワーシマロン・スプリング)は、サンタフェトレイルのシマロン経路で重要な給水場となった。他にもポイント・オブ・ロックスやポーニー・ロックが道沿いの重要な場所となった。
1820年代から、この地域(当時はアメリカ大砂漠として知られた)は、アメリカ合衆国政府によってインディアン準州として「恒久的に」取って置かれ、白人による開拓は行えなかった。
!doctype>おススメは、広さなら、ペリッシャーです。 周辺にシャーロットパスとかスレドボもあります。(NSW州)
景色なら人造湖ですが、それに向かって滑り込むフォールスクリーク、急斜面ならホッサムですかね!
(ビクトリア州) どちらも日本人は非常に少ないです。
アーミッシュ(英語: Amish[1]、ドイツ語: Amische[2])とは、アメリカ合衆国のペンシルベニア州・中西部などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民(ペンシルベニア・ダッチも含まれる)の宗教集団である。
移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる。原郷はスイス、アルザス、シュワーベンなど。人口は20万人以上いるとされている。
アーミッシュとメノナイトはルーテル派(ルター派)とツヴィングリ派の新教再組織から分かれてスイスのチューリッヒで生まれた一派で、のちにドイツに移住した。キリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある派で、創始者のメノ・シモンズ(Menno Simons)の名前をとってメノナイトといわれ、メノナイトの一員ヤコブ・アマン(Jacob Amman)は教会の純粋さを保つためにほかのグループから離れて暮らすいっそう保守的な派を作った[3][4]。彼の名前からこの派の人たちのことをアーミッシュという。ライフスタイルは少し違うが、メノナイトもアーミッシュも基本的信条は同じで、ひとくくりにアーミッシュと呼ばれている。
アーミッシュは移民当時の生活様式を守るため電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話など)も家庭内にはない。原則として現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を基本に農耕や牧畜を行い自給自足の生活を営んでいる[5]。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術・製品・考え方は拒否するのである。一部では観光客向け商品の販売などが行われている(アーミッシュの周辺に住む一般人が、アーミッシュのキルトや蜂蜜などを販売したり、アーミッシュのバギーを用いて観光客に有料で乗せたりする例もある)。
基本的に大家族主義であり、ひとつのコミュニティは深く互助的な関係で結ばれている。新しい家を建てるときには親戚・隣近所が集まって取り組む。服装は極めて質素。子供は多少色のあるものを着るが、成人は決められた色のものしか着ない。洗濯物を見ればその家の住人がアーミッシュかどうかわかる。
アーミッシュの日常生活では近代以前の伝統的な技術しか使わない。そのため、自動車は運転しない。商用電源は使用せず、わずかに、風車、水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度である。移動手段は馬車によっているものの[5]、ウィンカーをつけることが法規上義務付けられているため、充電した蓄電池を利用しているとされる[6]。しかし、メノナイトは自動車運転免許を持つことが許されており、家電製品も使用している。
!doctype> そのひとつに、過去に東海から西の太平洋沿岸の「南海トラフ」で起きた巨大地震と大津波、いわゆる「東海・南海・東南海三連動地震」は、約90年から 150年(中世以前の発生記録では200年以上)の間隔で発生していることが分かっており、今後も同じような発生パターンをとると推測されていて、対象地域の自治体では地震や津波などの防災計画を立ててきた。しかし、このたびの東日本大震災をうけて政府専門者会議でこの3連動地震の想定モデルが見直されて、従来想定よりもより広範囲な地域で発生すると報告された。
(1)南海トラフの巨大地震、震源想定域を2倍に拡大しM9に設定 内閣府の有識者検討会
東海、東南海、南海地震など、東海から西の太平洋沿岸で起きる巨大地震の想定を見直しを進めている内閣府の有識者で構成される「南海トラフの巨大地震モデル検討会」会議は昨年12月27日、駿河湾から四国・九州沖の海底に延びる南海トラフ沿いで想定される最大規模の地震の想定の震源域を従来の約2倍に拡大することなどを盛り込んだ中間報告をまとめた。地震規模を示すマグニチュード(M)は暫定的にマグニチュード(M)9.0と設定した。
検討会は、今年の春までに揺れの強さや津波の高さの新たな想定を公表したうえで、夏から秋ごろにかけて被害想定をまとめる予定で、新しい想定が正式に示されると対象地域の自治体では地震や津波などの防災計画の大幅な見直しを迫られる。
検討会は、東海から西の太平洋沿岸の「南海トラフ」と呼ばれる海底付近で想定される最大級の巨大地震や津波について、東海地震と東南海・南海地震が同時に発生した場合の震源域は、最新の研究成果などから、山梨県南部から九州の東海岸にかけての東西およそ750キロの範囲に想定し、従来の国の想定より陸側に大きく広がっている。暫定的に計算した震源域の面積は従来の約2倍のおよそ11万平方キロ、マグニチュードは3月の巨大地震に匹敵する9.0となり、これま� ��の想定の8.7に比べてエネルギーの大きさは3倍近くになっている。
また、地震に伴って津波を引き起こす海底の領域「波源域」は、3月の巨大地震の際、沖合の「日本海溝」付近で津波が巨大化していたという研究成果を受けて、同じように沖合の「南海トラフ」付近まで、広がる可能性があるとしている。
東海・東南海・南海で予想される3連動地震の従来の想定では、3地震が連動した場合の震源域は駿河湾から四国沖の約6万平方km。プレート境界の深さ10~30kmの領域。地震の規模はM8.7であった。新たに見直した想定震源域は左図の実線範囲内となる。
北側では、プレート境界の深さ30kmよりも深い部分でも通常の地震とは異なる低周波の地震が発生しており、この領域まで想定震源域を拡大した。
西側は、四国沖から宮崎県沖(日向灘)で起こるM7.5前後の地震も連動する可能性を考慮し、日向灘北部から九州・パラオ海嶺周辺まで南西方向へ拡大することにした。
東側も、駿河湾のプレート境界から内陸部につながる富士川河口断層帯(静岡県)の北端までとした。
全国200,000台以上の設置台数とその稼動状況を考えれば、
『こいつらを外すことになったらスロット島はもういらん!』
というホール様の声もまんざら冗談ではなかったと思います。
ほっとしたのはホール様だけではなく、パチスロ販売に係わる販売業者も多いのではないでしょうか。
『これ以上スロ島が減ってしまったら、わし等台を売るところなくなるやんか!』
と思っていた人いるでしょ?
まずは めでたし、めでたし。
そして、感謝、感謝!
ところで・・・では実際のとこ ろ「認定」ってどうやるの?ってことですが、
タイトルにもある通り、この「認定」ってやつは実はホール様が主体で動かないと始まらないんです。
中古移動に似ているけれど手続きが少し違います。
『んなもん、業者に任せておけば いいの。』という訳には行きません。
ここでは中古移動との違いを説明するのではなく、私らの組合(回胴式遊技機商業協同組合)から発行されている
広報誌Vol.86に掲載されている運用ガイドから要点だけ。
っていうか、回胴遊商の広報誌をしっかり読んでくださいね!
いいこといっぱい書いてありますよ・・タダだし
ややこしいかもしれませんが、公安委員会へのパチスロ台の認定申請に必要な書類は下記の3種類。
@ 回胴遊商組合員が作成した「保証書(含 製造番号等)」「遊技機点検確認書」
A 検定通知書(甲)の写し
B 認定申請書(ホール様が用意します)
※(@とAは「打刻書類」として1冊に綴じられています)
ここで、@の書類を手に入れるために回胴遊商の組合員(遊技機取扱主任)による
対象遊技機の点検確認作業が不可欠なわけです。
で、この点検確認作業を依頼するための書類が「認定申請 遊技機点検確認依頼書」(依頼書)でして、
『この「依頼書」はホール様が作成してください』ということです。
JMTとはアメリカの長距離遊歩道の一つである。北のヨセミテ国立公園から南のMt.Whitneyまでの約340キロの区間で、全長が繋がったのは1938年である。John Muir Trail通称JMTはPacific Crest Trailと部分的に重なっている所もあるが、特に美しいと言われる北のYosemiteから南のMt.Whitney(アメリカ本土の最高峰、4421m)の山道に付けられた名前である。名前の由来は19世紀から20世紀の初頭に掛けSierra Nevadaに関する多くの著述をし、また自然保護区の設定を説いたJohn Muirの威徳を偲ぶものである。山道は北からYosemite国立公園、Ansel Adams自然保護区、Devil's Postpile 国有記念物、John Muir 自然保護区、Kings Canyon国立公園、Sequoia 国立公園と繋がって居り、保護管理されている。
島国の小国日本から見ると、アメリカは途轍も無く大きい。連続する山道で長いのはロッキー山脈を南北に貫くContinental Divide Trail(大陸分水嶺山道)で、此れは5000キロに及ぶ。更にその西側にはSierra NevadaやCascade 山脈を通るPacific Crest Trail(4250キロ)や東部にはAppalachian National Scenic Trail(3510キロ)等がある。これらの山道を春から秋に掛けて一気に踏破しようとする人は多く居るが、中々達成は難しい。
今夏僕が行ったのはJohn Muir Trail(340キロ、Mt.Whitneyからの下りPortalまでを含めると355キロ余り)であり、これはSierra Nevada山脈(640キロ)の約半分に過ぎない。
何故ここに行くことにしたのか? 2009年の暮れパタゴニアの走り歩きの旅をし、彼の地の花崗岩の山、特に橙色をした針状の山、Mt.Fitz Roy,に痛く感動を覚えた。昨年3月初め訪米の際、Patago― niaに一緒に行ったGlennとTanyaのDinky 夫婦は、アメリカにはそれらを凌ぐ美しい山が有ると言うのだ。彼等は此れを見る為に、夏休みを利用して、十分な装備、食料も持たず、全行程を8日で踏破したという。PatagoniaやAndesのAdventure Tourを主催しているDevyは今年2月に会った時、同じ道を5日半で踏破したと話していた。彼等は優れたランナーである。
Patagoniaの山を凌ぐ花崗岩の山は観てみたい。美しい自然に対する強烈な憧れと好奇心である。又、350キロ以上の山行を完全野宿で踏破することは体力的にも試して置きたい。歳が歳だけに来年では遅すぎる。是非2011年の夏に実施しなければならない。この話を原さんにすると、彼も是非行きたいと言っていたが、昨年の暮れ再度確認すると、体調が良くないので、同行は無理との話であった。その後知り合いに声を掛けると、元々は山屋のランナー薄葉さんが行きたいと言って来た。僕が連続10回目の完走を目指していたが90キロで諦めた1999年の鶴岡を完走した男で、その後僕の生前葬のレースにも来ているので、御存知の方も居られよう。心強い仲間が出来、計画を具体化させることにした。
!doctype>カンパーナの果敢なデザインスタイルは、デザインという概念におけるヨーロッパ的なものの考え方の、植民地的支配といえるようなものに対する忌避でもあり、それはブラジル的なデザイン概念の確立の為の挑発的行為でもある。
彼らはブラジルという「祝祭の国」において生まれたデザイナーであり、それらの概念に無縁ではありえない。
彼らにとってブラジルという国の置かれた状況と作品との間には寸分違わぬ親和性が見られる。
カンパーナ兄弟のひらめきは、ブラジルという存在そのもののひらめきであり、それは我々日本人のひらめきがその地理的風土に影響される事となんら変わりのないことである。日本人が日本人である以上、日本的文化は我々にとって異文化ではありえず、それは我々の中に存在する必然的なものだ。
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