真実に一番近い話 カティーサーク!
文献調査
本を調べてみると、若干ですが、日本のお茶の本にも、カティーサークがお茶を運んだとしている本がありました。
英国紅茶の館 仁田大八著 東京書籍
この本の中で仁田氏は、「大航海史」からの転載として、1870年6月25日に上海からの航海を紹介しています。P83
英国紅茶の話 出口保夫著 東京書籍
この本では、出口氏は、『そして「カティ・サーク」も、わずか十年でティ・クリッパーの役割をとじて、オーストラリアの羊毛を運ぶウール・クリッパーに転身することとなったのである。』と記述されています。P119
次に上げるのは、日本の本ですが、イギリスの人が書かれた本の訳本です。
紅茶・珈琲誌 E-Bramah著 梅田晴夫訳 東京書房社
この本は、ロンドンにあるブラマー ティー&コーヒー 博物館の館長の E-Bramah氏の書かれた本です。
この本にはこう書かれています。『最後の紅茶レースは1871年に行われたが、そののち残った船は外国に売られるか、さもなければオーストラリア航路にくらがえされ、旅行者を送っていっては羊毛をつんで帰るというような具合にになってしまったのである。』P201
最後のレースが1871年であれば、ティーレースに参加するために作られたカティーサークは、参加しなかったのでしょうか。
ビーケン家所蔵の写真集 世界の帆船
解説E.C.Abranson 写真F.W.Beken A.K.Beken K,J,Beken たちばな出版
この本は、現存する帆船の写真集ですが、単なる写真集でなく、その船の詳細なデータや歴史が書かれています。
ここには、『カティー・サークは、1870年の最初の航海で1位で、また翌年は2位で中国から戻ったが、サーモピレーはその2年間参加していなかった。両者の対決は1872年にかなったが、この時カティーサークは舵を失い、仮帆装と間に合わせの舵で約十日間の遅れをとってしまったが、カティー・サークがロンドンに戻ったのは、ライバル船のわずか7日後であった。』と書かれています。 P72
次は、海外の本にどう書かれているか見てみました。
mckleeneは何ですか?
The TEA Companion Jane Pettigrew著 TheApple press出版
Jane Pettigrewさんは、イギリスの料理研究家で紅茶にも造詣が深く、イギリス紅茶協会(The Tea Council) のライターもされている方です。
この本には、『the last of races was in 1871, by which date steamships had taken over the work of most of the clippers and the Suez Canal had opend, knocking several weeks of the voyage between Europe and Asia.』ここには、スエズ運河の開通によってティークリッパーの仕事が蒸気船に取って代わられ、1871年に最後のレースが行われたと書いて有ります。P22
大御所の本に登場していただきましょう。「All about Tea」という本です。
All about Tea W,H. Ukers著 The Tea and Coffee trade journal出版
1935年出版のこの本は、The Tea and Coffee trade journalというお茶と珈琲専門の世界的な業界誌の社主のW,H. Ukers氏が、その取材網を使って書き上げた本で、まさに茶の百科事典とも言える本です。
66年を経た現在でも、この本を越える茶の全体像を書いた本は無いと言われ、茶の歴史を書く人は必ずと言っていいくらい参考にする本なんです。
過去に何人もの方が日本語訳に挑戦しているのですが、あまりの広い範囲にわたる記述のため、未だに完訳されていません。が、@Nifty内の「茶の文化フォーラム・FTEA」において、ネットを活用した共同作業として、その翻訳が進められています。実は私も12章を担当しているのですがぁ...m(_ _;)m。
この本では「GOLDEN AGE OF THE CLIPPER SHIPS」と題して、P86からP108に至るまで、実に22ページに渡って、その時代の事についてかかれています。その中から今回の主題となるところを2か所拾ってみます。
『From 1870 to 1877 she made a number of tea passeages, none of then sensational.』
1870年から1877年の間に、カティーサークは何度もお茶を運んだと書かれているのです。第1巻7章P98
ブラジルはコーヒーのブームを持っていなかったとき
『In 1871, "Titania," by a ninetyseven days' run, captured the bule ribbon a field of four, sailing from Foochow and Shanghai. That year marked the end of tea races.』
ここで、the bule ribbon とは、スエズ運河を使って定期航路を開いた海運会社の船のことです。 この文章はチタニアというティークリッパーについて書いて有りますが、最後に「この年が最後のティーレースを記録した年です。」と書かれています。第1巻7章P101
ここで、ちょっと本を離れて、リンアンの壁にかかっている絵(ポスター)を見ていただきます。これは、1998年、私がカティーサークを訪れたときに、カティーサークの中で買い求めてきた絵です。この下に少しばかりの文章が書かれています。
『on the third voyage in 1872 the Cutty Sark got the long awaited chance to race the Thermopylae home in the same weather and under the same conditions. Both left the mouth of shanhai river on June 18th. Both were held up by fog. When the weather cleared they sped down the China Sea and exchanged the lead several times over the next four weeks. Eventually the Cutty Sark gained a 400 mile lead...』
判りますでしょうか。なんと、ビーケン家の写真集に書かれていた、1872年のカティーサークとサーモピレーのレースの絵だったのです。
前に大きく描かれているのは、船首のナニー像から、カティーサークだということが判ります。後ろに描かれているのは、ほぼ間違いなくサーモピレーでしょう。この絵は、非常に象徴的な絵で、カティーサークの右後方には、なんと蒸気船が小さく描かれています。カティーサークを主役にしつつも、忍び寄る蒸気船の時代が実に象徴的に描かれています。
インターネットで調べたカティーサークの常識
私はマドレーヌマッキャンに何が起こったか知っている
日本のホームページ
日本にもカティーサークが大好きな人がいます。 特に石橋氏の「こだわりワールド」は凄いです。石橋氏は、10年の歳月をかけて、カティーサークの詳細な帆船模型を作り上げられました。
海外の本や雑誌を調べ上げ、ロープの本数にまでこだわった大作です。実に詳細に。実に忠実に作り上げられています。
当然、カティーサークの歴史にも詳しく、「CUTTY SARK by Noel C. L. hackney 」という本を中心にカティーサークの歴史を書かれていますから、是非、参照してください。
こだわりワールド
海外のホームページ
多くのサイトを見ましたが、多くののページが All about Tea と同じように、1877年が、最後にお茶を運んだ年、として書いて有りました。
DAYS OF SAIL
Greenwich Guide The Cutty Sark
CUTTY SARK - Museum-quality model of the Fine Art Collector`s Edition
Inverbervie Cutty Sark Page
Cutty Sark Historical Perspective
Cutty Sark
the Cutty Sark
Cutty Sark
(2001/2/13追加)THE TEA COUNCIL(英国紅茶協会)のページにも、カティーサークの記述がありました。
The Cutty Sark was built in 1868 and only carried tea on just eight occasions.
「カティーサークは8回しかお茶を運べなかった。」と、書かれていますね。
世界の、そして帆船の世界の常識では、原因として、1869年のスエズ運河の開通が、ティーレースを終了させたのですが、実際に終わったのは、1869年ではないのです。当たり前と言えば当たり前のことではないでしょうか。
ティークリッパーの詳細な記録
このサイトをご覧ください。究めつけのサイトです。このサイトはスウェーデンのアプサラ大学のLars Bruzelius氏のサイトです。
The Maritime History Virtual Archives
ここから、「Ships」→「British Tea Clippers 」と進んでください。そこには、イギリスで建造された全てのティークリッパーの詳細な記録が記されています。直接カティーサークのページへ行きたい人はこちらから(^^ゞ。
この記録によれば、カティーサークは、1874年に一度シドニーへ行っていますが、その他は1877年まですべて中国への航海ですね。茶を運ぶために造られた船が、毎年、中国へ行って、茶を運ばなかったのでしょうか。
もうここまで来れば言い切っても良いと思います。
「カティーサークは、確かに茶を運んでいます!。」
でも、ここまで調べても、ティーレースに参加したかどうかは、断定できません。Lars Bruzelius氏のサイトにも、All about Tea にも、他の海外のホームページにも、ティーレースの公式記録という物は記載されていません。ティーレースとはいったい何だったのか。もし、ティーレースの公式記録が存在するのなら、その公式記録にカティーサークの名前が記録されているのか。その辺りをハッキリさせなければ、カティーサークがティーレースに参加したとは言えない筈です。
カティーサーク自身のホームページ
最近、とうとう、あの3年前に訪れたカティーサーク自身が、ホームページを開いたのを見つけました。
The Cutty Sark : Greenwich : London
嬉しくなった私は、すぐさま、疑問に思っていたことを箇条書きにしてメールを送りました。
カティーサークのインフォメーションのHelen Jonesさんは、非常に親切に私の質問に答えてくれました。
そして、その返事の冒頭に書かれていたのは、
『CUTTY SARK competed in the Tea Races from 1870 until 1877.』
「カティーサークは1870年から、1877年までティーレースで競争していました。」 という言葉だったのです。
Helenさんとのメールのやり取りは数回続き、その結果、見えてきたのは、私にしても驚くべき内容でした。
しかし、その事実は、経済的な成り行きからすれば、至極当然の内容だったのです。
お待たせしました。以下が、Helenさんに聞いたことを元に書いた、当時のティーレースの、そしてカティーサークの真実に一番近い姿です。
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