2012年6月2日土曜日

1880年アメリカ合衆国大統領選挙 - Wikipedia


大統領当選者
ジェームズ・ガーフィールド
選挙結果の図。青色がガーフィールドとアーサー、赤色がハンコックとイングリッシュ、が勝利した州を示す。数字は各州の選挙人数。

1880年アメリカ合衆国大統領選挙(1880ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1880)は、概して共和党の南部におけるレコンストラクションを緩める動きに対する国民投票として見られた。当時特に大きな政争はなく、唯一関税の問題があって、共和党は高い関税を支持し、民主党は低い関税を支持していた。

現職の大統領ラザフォード・ヘイズは1876年アメリカ合衆国大統領選挙運動中になした公約を守り再選を求めなかった。共和党は最終的にその看板候補として、もう一人のオハイオ州人ジェームズ・ガーフィールドを選んだ。一方民主党は南北戦争の将軍ウィンフィールド・スコット・ハンコックを候補者に選んだ。ガーフィールドは一般選挙でわずか2,000票ハンコックを上回っただけであったが、選挙人選挙では全369票のうち214票を獲得して容易に当選した。アメリカ史の中でも今日までこれほど一般投票での差が無かった大統領選挙は無い。


ディアス政権の頭は誰ですか?

目次

  • 1 候補者の指名
    • 1.1 共和党の指名
    • 1.2 民主党の指名
    • 1.3 グリーンバック労働党の指名
    • 1.4 アメリカ党の指名
  • 2 一般選挙
    • 2.1 選挙運動
    • 2.2 結果
      • 2.2.1 ジョージア州の票
  • 3 脚注
  • 4 外部リンク

[編集] 候補者の指名

[編集] 共和党の指名

共和党の指名候補者

  • ユリシーズ・グラント、元大統領、イリノイ州出身
  • ジェイムズ・G・ブレイン、メイン州選出アメリカ合衆国上院議員
  • ジョン・シャーマン、オハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員
  • ジェームズ・ガーフィールド、オハイオ州選出アメリカ合衆国下院議員

現職のヘイズは指名を求めなかったが、元大統領のグラント(任期:1869年-1877年)は公然と3期目の指名を求めた。シカゴでの共和党全国大会に入ったときは、グラントが一番手であったが、その敵対者はジェイムズ・G・ブレイン、ジョン・シャーマンなど他の多くの候補者を支持した。オハイオ州代議員の一人であったジェームズ・ガーフィールドはシャーマンを支持する主要演説を行ったが、間もなく自分自身が代議員の票を得ている者の中にいることが分かった。36回目の投票でガーフィールドは399票を集め、グラントの313票、ブレインの285票およびシャーマンを凌ぎ大統領候補に指名された。次にレヴィ・モートンが論争を避けるために副大統領指名候補を降りた後で、チェスター・A・アーサーがエリュー・B・ウォッシュバ� �ンを大差で破って副大統領候補に選ばれた。この党大会では、代議員が初めてアフリカ系アメリカ人のブランシュ・ケルゾー・ブルースに票を投じたことでも注目に値するものであった。

[編集] 民主党の指名

民主党の指名候補者

  • ウィンフィールド・スコット・ハンコック、アメリカ陸軍少将、ペンシルベニア州出身
  • トマス・F・ベイアード、デラウェア州選出アメリカ合衆国上院議員
  • ヘンリー・B・ペイン、元オハイオ州選出アメリカ合衆国下院議員
  • アレン・G・サーマン、オハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員
  • サミュエル・G・ランドール、ペンシルベニア州選出アメリカ合衆国下院議員

オハイオ州シンシナティの民主党全国大会は荒っぽい事態、まさに何ダースもの名前が潜在的大統領候補に現れてきた。最終的には南北戦争の将軍ウィンフィールド・スコット・ハンコックが代議員票705票を獲得し、154票のベイアード、129票のランドール、81票のペイン、69票のサーマン、66票のスティーブン・J・フィールドなど数多の候補者を抑えて指名された。続いてウィリアム・ヘイデン・イングリッシュが副大統領候補に指名された。

[編集] グリーンバック労働党の指名

2大政党の財政政策に不満を抱いたグリーンバック労働党は、1876年の選挙でも少数政党であり、今回はジェイムズ・ベアード・ウィーバーを大統領候補に、ベンジャミン・チェンバーズを副大統領候補にして戻ってきた。

[編集] アメリカ党の指名

フリーメイソンに不信を抱く運動家が新しい移民排斥主義政党を創ることになり、古い名前であるアメリカ党を再使用した。元南北戦争の将軍でバーモント州の反フリーメイソン運動指導者ジョン・W・フェルプスが大統領候補に、元カンザス州上院議員サミュエル・C・ポメロイが副大統領候補に指名された。

[編集] 一般選挙

[編集] 選挙運動

民主党は論争のあった1876年の選挙を攻撃して選挙運動を始め、共和党は再び南北戦争を持ち出したが、間もなく対象は人格に移った。ガーフィールドは勤勉で叩き上げであることを宣伝した。共和党はゲティスバーグの戦いに従軍したことで広く尊敬されているハンコックを直接攻撃することを避けたが、将軍は腐敗した民主党の名目上の指導者として行動すると主張し[1]、モリー・レターでガーフィールドを落としいれようとしている人のように言った[2]民主党は共和党の腐敗を宣伝し、ガーフィールドと特にその伴走候補者アーサーを攻撃した。

1873年の恐慌の影響が終息し、十分な資金があり選挙運動もうまくいったことを合わせて、ガーフィールドに利点があった。


[編集] 結果

大統領選の結果
大統領候補者
出身州 
党   得票数 得票率 選挙人得票数 副大統領候補者
出身州
選挙人得票数 
ジェームズ・ガーフィールド
オハイオ州
共和党 4,446,158 48.3% 214 チェスター・A・アーサー
ニューヨーク州
214
ウィンフィールド・スコット・ハンコック
ペンシルベニア州
民主党 4,444,260 48.3% 155(a) ウィリアム・ヘイデン・イングリッシュ
インディアナ州
155
ジェイムズ・ベアード・ウィーバー
アイオワ州
グリーンバック労働党 305,997 3.3% 0 ベンジャミン・チェンバーズ
テキサス州
0
ニール・ダウ
メイン州
禁酒党 10,305 0.1% 0 ヘンリー・アダムズ・トンプソン
オハイオ州
0
ジョン・W・フェルプス
バーモント州
アメリカ国民党 700 0.0% 0 サミュエル・C・ポメロイ
カンザス州
0
その他 - 3,631 0.0% 0 - 0
合計 9,211,051 100% 369 - 369
選出必要数 185 - 185

(a)下記"ジョージア州の票"を参照

[編集] ジョージア州の票

アメリカ合衆国憲法第2条第1節第3項に拠れば、「連邦議会は、選挙人を選任する時期および彼らが投票を行う日を定めることができる。この日は合衆国全土を通じて同じ日でなければならない。」とされている。1972年、連邦議会は選挙人投票の日を12月の第1水曜日と設定し、1880年の場合もその日に、すなわち12月1日に設定された。しかし、ジョージア州の選挙人は12月1日に投票できず、次の週の水曜日12月8日に投票した。連邦議会はジョージア州の票を公式集計に含めることを選択したが、ジョージア州の票は意見であるのでハンコックの選挙人票は155票ではなく144票であるという異論がある。


  1. ^ Harp Week
  2. ^ モリー・レターは1880年10月20日にニューヨークの新聞「The Truth」に掲載された、ガーフィールドが書いたとされる手紙。偽造とされた。en:Morey letterを参照。

[編集] 外部リンク

  • 1880 popular vote by counties
  • Harp Week
  • The Republican Campaign Textbook 1880
  • Caricature by Joseph Keppler of 1880 Presidential Candidates
  • How close was the 1880 election? - Michael Sheppard, Michigan State University
  • 一般選挙に関する出典:[1]. [2]. (2005年7月27日).
  • 選挙人選挙に関する出典:[3](2005年7月31日)